「スイート ノーベンバー」

恥ずかしながらこの頃こういうのに弱くなってるんでしょうか?
昨日はスイートノーベンバーのDVDを借りて見ました。
レンタル屋さんで秋だというので、秋にちなんだ映画を集めていて、目にとまったわけです。

同じ秋でオータム・イン・ニューヨーク(AIN)がとなりにありましたが、こっちは前に見たことがあるんだけど、いいとは思いませんでした。話がスムースにつながらないというか、説明不足じゃない?と思うところがありました。
今回のもなんかそんな感じだろうと、そしてこういう類の映画はやっぱりわざとらしさが消せないものかなと思いながら見ましたが、予想に反してよかったです。
女性が明るくて、口元の感じが誰かに似てるってことも好印象の原因かも。
そしてキアヌリーブスのさっぱりした感じも。こういう映画ではそれって大事な気がします。

この映画で彼女は自分が病気であることは隠そうとするし、最後まで一緒にいることを許しませんでした。しかし AIN ではなんと、二人のもめごとの際に彼女自身から自分の病気のことが伝えられます。僕だけそう聞こえるのかわかりませんが、そういう時に言うでしょうか? そして AIN の彼はその彼女の言葉をきっかけにして彼女のためにそばにいたいという気になるわけです。この辺にすごく抵抗がありましたし、全体に話の厚みの薄い感じがしました。
実際に映画の時間が短いわけですが。
スイートノーベンバーはそれに比べればゆったり話が進んでる気がしました。映画ですから当然、リアルタイムではないわけで、カットを重ねることで時間の流れを速めることができるわけですが、それにも限度があるんだなと、 AINと対比させて思いました。

彼女の、行動の背景にある気持ちは想像できます。
自分が生き生きと出来て、また自分の作用によって相手も同じようになるっていうのは生き甲斐(こんな言葉、久しぶりに使った..)の根幹。
見てて、自分も誰かといつもそうありたいと感じてました。必要とされ、必要としていると感じる関係。
また、有限の時間を実感して、無為に時間を過ごしていたり、自分の時に夢を持てない人を見ると放っておけない気持ち。

彼は業界のドンと言われるような人に自分からアプローチし、採用されそうになったのに、ウエイトレスがテーブルのものをこぼしたことへの対応で、今までの彼にはなかった反応をするわけです。
少しずつの変化が、ここまでになったということを彼自身も、見ている私たちにも感じさせる
あの彼をここまで変えられた彼女の自信に関心するわけですが、それは映画だからというのもあるでしょうが(だって、あそこまで嫌がられている相手に、強くはやっぱりなれませ〜ん)彼女の隣の彼(彼女?)がいたからという設定なんでしょう。

いい関係を続けたいと思うとき、相手の何もかも共有するのがいいんでしょうか?
それとも互いが限られた時間のなかで関係を一所懸命考えるような、そういうのがいいんでしょうか?
彼はこの生活が大事だと気づいたとして彼女に結婚を申し込みます。
いつも一緒なのは家族。家族に対してそんなことは考えませんよね。
家族に対してそういう迷いがあると相談したら、家族間の信頼関係が足りないからでしょう と言われるんでしょう。
スイートノーベンバーの彼女は最後は実家に帰って入院すると、家族に世話してもらうと言ってましたね。彼にはそれを許さないのに。家族には許せるわけです。
こういう書き方をすると家族にはかなわないという感じだけれど、彼女になくてはならず、家族に見つからなかったものが、あの映画の生活なわけです。そう考えると、互いに大切に過ごしたいと感じる時間だけを共有するのはいいものだと思います。

エンディングはあれでいいんでしょう。あれで二人はおしまいになってしまったと思う人もいるだろうし、彼女を追っていったと信じたい人もいるでしょう。彼女は一番の自分をたくさんの人の気持ちに残しておきたかったわけですが、わからなくはないけど、そんなことで思い出や気持ちは変わるもんじゃなくいのにと思いながら聞いてました。
彼女のそばに最後までいられることが彼の望みなら、それをかなえてあげるというのは彼女が最後に出来ることであるし、最後の瞬間に自分を託すことができる人が彼なら、それは幸せなことだと思うんですけどね。
現実でも自分におこったアクシデントをきっかけに人生観が変わり、新しい自分の生き方をはじめるという人はたくさんいるようです。それは流されていく人生ではなく、自分で毎日を決めていく人生です。
迷いを何日も放置し、時間にまかせることは出来ないわけです。
彼女は後悔はあるかもしれないけど、あの時、決める必要があったんですね。それはしかたがないことです。

スウィート・ノベンバー [DVD]

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